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八重山日記  <2019年05月14日 “オヤケアカハチ”の絵本を借りました(*^_^*)> 

※お客様の観光計画のご参考に・・・。

 石垣島の大浜にはオヤケアカハチの像が有ります。 アカハチは八重山の英雄ということで、もっと深く知って身近に感じたいと思い、2003年に初版された絵本“南風(ぱいかじ)よ吹け”を探しました。 Netで調べたところ販売品はもう無く、相模大野市立図書館で調べて頂いたところ、相模原市立図書館に蔵書があるということで取り寄せてもらい借りることが出来ました。(*^^)v 

(下の右の写真の私のシャツの下のお腹にはウェストバックが入っています。 脂肪では有りません。 念のため。(^-^;))

 石垣島 大浜 オヤケ アカハチ 像 英雄 八重山 

 絵本には文・新川さんと絵・儀間さんの味のあるサインがされていました。

絵本 オヤケアカハチ 南風よ吹け ぱいかじよふけ 八重山 英雄

 絵本のあらすじは・・・。

 今からおよそ550年前(2003年初版の絵本に530年前とあるので2019年の今では四捨五入して550年前)異国船が“パティローマ(=波照間)”島に台風のため漂着し・・・。 異国船の船長が台風で折れた帆柱の腕木を修理するための木材を探す為に上陸し・・・。 “お嶽(たけ)の森”に入ったところ・・・。

 そこでお祈りしていた霊力(せじ)の高い司(つかさ)である娘に遭遇・・・。 司は驚いて気を失ってしまい・・・。 司の夢の中に神さまがあらわれて「神の子が宿る」とのお告げを受け・・・。

 3日ほど経って船の修理を終えた船長が訪れ「洞穴に森の神様とあなた(司)への贈り物を隠しました。使い道はここに書いてあります。」と巻き紙を司に渡し帰って行き・・・。 司が洞穴に行ってみると・・・。 鉄の板や延べ棒が積まれ、金槌が一つ置かれていて・・・。

異国船 漂着 船長 ウタキ 森 司

 十月十日も過ぎたころ、お嶽に籠っていた司は(キリストの母である聖母マリア様と同じく)処女懐妊した?神の子を一人で産み・・・。 島の人とは髪の毛も目や肌の色も全く違う大きな赤ん坊を抱いてお嶽から帰って来て・・・。 島人に「神さまが授けて下さった神の子です。八重山の救い主になるとのお告げもありました。」と話しようやく受け入れてもらい・・・。 司の子は村人たちから“アカ・アマジィ(赤髪)”と呼ばれ可愛がられて・・・。

 15歳にもなると2mを超えるたくましい少年になり・・・。 天気や海の様子や作物の出来や不出来などを前もって言い当てる不思議な能力をみせるので・・・。 島の人たちも「この子はやはり神の子だ!」といつのまにか“赤(気高い、本当の)”・“按司(あじ=指導者)”という尊敬の意味をこめて“アカアジ(赤按司)”と呼ぶようになり・・・。

 母の司が病気になり「お嶽の洞穴に神様からのお宝が隠してあります。世のためにこれを役立てて、命の限り働くのです。」と言って巻紙(図面)を渡し息を引きとり・・・。

 アカアジはお嶽の森の近くに小屋を建てて閉じこもり、やがてふいごや金敷(かなしき)などの道具を作り上げ、やがて“カナパイ(鉄の鍬)”や鎌や山刀や斧を作り島人に配り、西表(イリムティ)島のお米と交換したりして、島人に「アカアジはウヤキピトゥ(富める人)、まさにウヤキ、アカアジ」と尊敬をこめて名付けられ・・・。 他の島々にもその名を知られる様になったとのこと・・・。

アカアジ アカハチ  

 後にアカハチと結婚するクイツバは、宮古島の頭領で八重山にも勢力をのばしつつあった仲宗根豊見親玄雅(ナカソネ トゥユミ ヤ ゲンガ)が西表(イリムティ)島に宮古島にはない木材を切り出しに来た時にパティローマ(波照間)島の娘に産ませた末の子供で、アカハチとクイツバは兄弟以上の仲良しでしたが、アカハチ13歳・クイツバが12歳の時にクイツバの長兄の長田大主(ナータフーズ)が、仲宗根豊見親(ナカソネ トゥユミ ヤ)に「八重山全体を我が物にするため、石垣島に石垣(イシャナギ)村の頭領(かしら)として行く様に。」と命じられ、二人は別れることに・・・。 

 クイツバと別れて7年・・・。 石垣島には川平(カビラ)村の仲間満慶山(ナカマ ミツケーマ)・平久保(ペーブク)村の加那按司(カナアジ)・石垣(イシャナギ)村の長田大主(ナータ フーズ)の頭領(かしら)が、西表(イリムティ)島祖納(スナイ)村には慶来慶田城(ギライキダスク)、与那国(ドゥナン)島には女頭領サンアイ・イソバが、パティローマ(波照間)島にはアカハチと明宇底獅子嘉殿(ミウスクシシカドゥン)がいて、張り合い時には戦争(いくさ)をする群雄割拠の時代・・・。 石垣島の大浜(ホーマ)村と平得(ピサイ)村には力のある頭領がいないため、荒らされたり奪われたりで、「アカハチさまをお迎えしよう。」ということになり・・・。 アカハチのおかげで大浜(ホーマ)村と平得(ピサイ)村は豊な村になり・・・。 アカハチは石垣島一番の実力者になり・・・。

 仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)と長田大主(ナータフーズ)は、平久保加那按司(ペーブクカナアジ)を西表(イリムティ)島祖納(スナイ)村の慶来慶田城(ギライキダスク)に殺させ、残る川平(カビラ)村の仲間満慶山(ナカマミツケーマ)を倒せば石垣島全体が手に入ると考えていたときに、アカハチが石垣島一番の実力者になったためアカハチの暗殺を企て、クイツバをアカハチに嫁入りさせ・・・。 クイツバにアカハチを殺れと命じますが・・・。 クイツバはきっぱりと断り・・・。

 そんなころ、沖縄の首里王府は宮古・八重山も領土にするために動き出し、臣下として年貢を差し出すように要求してきて・・・。 他の頭領達が従う中でアカハチだけはこの要求をはねつけ・・・。 長田大主(ナータフーズ)はこれをみて他の頭領達と連合軍をつくりアカハチの本拠地の大浜(ホーマ)村に攻め込みますが・・・、アカハチに散々に打ち破られてほぼ全滅・・・。 長田大主(ナータフーズ)だけは西表島に逃げて山中に隠れるという負け戦に・・・。 

 これを知った仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)は沖縄へ渡り王府にアカハチ討伐を訴え出て・・・。 王府としては渡りに舟、「極悪非道の謀反人を討つ」との大義名分で軍船46艘に兵士3000人・宮古島では兵300人を加え石垣島へ・・・。

 もちろんアカハチであってもこれには敵わず・・・。 アカハチはクイツバと共に斬り殺されてオモト岳のふもと底原(ソコバル)に投げ捨てられてしまったとのこと・・・。 

ウヤキアカアジ ツクバイ 結婚 戦い 謀反人

 アカハチとクイツバ殺した首里王府はアカハチのことを「王府に刃向い、人々を苦しめた極悪人」と歴史書に書き残し・・・。 仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ)と長田大主(ナータフーズ)を宮古と八重山の“頭職”に取り立て・・・。 八重山ではアカハチのことを「アカブザ(=土百姓)」と呼ぶように仕向けたとのこと・・・。 

 およそ百年後に薩摩が攻め込み、首里王府軍を破り、首里王府は薩摩に重い税を掛けられて宮古・八重山に人頭税という地獄の税を掛け・・・。 三百数十年後には首里王府そのものが大和国(やまとのくに)に滅ぼされるという時代を経て・・・。 アカハチの本当の姿が知られるようになって・・・。 ついには本拠地だった大浜(ホーマ)村の広場にアカハチを称える記念碑が建てられ、寄り添うようにクイツバの碑も建ち・・・。

 八重山の南風(ぱいかじ)はパティローマ(波照間)島の更に南にあると思われていた“理想郷=パイ(南)パティローマ(波照間島)”をアカハチの夢を乗せて吹き抜けてきた風だとの・・・。 史書をもとにし、作者の考証と想像を加えた絵本話でした。

 アカハチの像が指さす先の浜の岩には・・・。 “アカハチの足跡”といわれる巨大な窪みが・・・。  

あかはち ツクバイ 海岸 岩 足跡 

 アカハチとクイツバが投げ捨てられた底原(そこばる)にあるセイシカの木に毎年2月がすぎるころに寄り添って咲く二輪の花が見られる・・・。 と絵本では結ばれていますが・・・。 幻の花といわれるセイシカの花は、石垣島のバンナ岳公園で2月~3月に見ることができます。

幻の花 セイシカ バンナ岳公園

 このところ毎年、演劇 “オヤクアカハチ ~太陽の乱~” が石垣島で上演されている様です。

オヤケアカハチ 太陽の乱 石垣島

 オヤケアカハチの戦いの後、八重山は琉球王朝→薩摩→大和の国に人頭税という酷税をかけられ想像を絶する苦しみを味わいながらも、人々は不戦・忍従を5世紀もの長きにわたり貫き通します。 八重山に行くと島の人々が優しいと感じるのはそんな不戦の歴史のためなのでしょうか? 八重山諸島が、そして日本列島がこれからも永遠に平和な理想郷(パイパティローマ)であり続けることを祈ります。

 オヤケアカハチを分かりやすく紹介してくれているHPを見つけました。→[オヤケアカハチ紹介HPへ]