八重山日記<2022年04月16日 唐人墓 ((+_+)))>
※お客様の観光計画のご参考に・・・
兄を❝ワーケーション❞滞在ホテルに送る道すがら、各所の観光案内をしました。 (#^^#)
唐人墓はアメリカと中国と日本(八重山)の歴史で、アメリカの奴隷船の残酷さと日本(八重山)の人の優しさを知る一つの史実が刻まれています。
[以下、碑文]
「この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている 中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた
一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次
辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した
船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した 八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った
中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった 琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した
しかし疫癘による病死者も続出した 死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた
一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成
当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
一九九二年三月三十一日 石垣市長 半 嶺 當 泰」